繋いだ手はバニラの香り──8



「旦那様はしばらくお屋敷をお留守にされるそうです」
ティエリアの答えに、部下の男は怪訝そうに問い返した。
「留守?なぜだ」
「急なご用事だそうです。詳しいことは私にはわかりかねますが」
丁寧だがどこか堅さのある声で言うティエリアに、立場が上であるはずの男は僅か気圧されているように見えた。しかし刹那には、その硬質な声にも言葉の内容にも、ひどく安心できた。
(留守か……)
サーシェスがいないということに、ほっとした自分はきっと弱いのだと、わかってはいても良かった、と思ってしまう。
男はティエリアに向って更に言い募ろうとしたが、胸ポケットで携帯が着信でバイブ音をたてていることに気付いて口を閉ざした。
「もしも…あぁボス!……は……わかりました……はい、すぐに」
すぐに電話を切り、後は任せたぞ、と良い置いて男が去る。冷ややかな眼差しでそれを見送ったティエリアは刹那に言った。
「お部屋へご案内いたします。その際、専属のボディーガードと家庭教師にご紹介させていただきますが宜しいですか?」
「……わかった」
ボディーガード。家庭教師。
聞き慣れない言葉の羅列に、刹那はただ頷いた。では、と背を向け歩き出すティエリアを追いながら、思考が上手く働いていないことを自覚する。緊張しているのか、と思うと少し悔しかった。
(たかが、これくらいのことで)
ティエリアに気付かれないように、と極力気をつけて深呼吸をする。
そうだ、たかがこれくらいのことで。故郷にいたときは、満足に食事などできず、毎晩銃声を聞いて夢から連れ戻された。明日生きていられる保障はなかった。
そんな日々に比べれば。そんな日々を耐える人々の顔を眺め続けることに比べれば。
あの地獄を変えられるのならば、どんな地獄にも行く。刹那は、そう決意して故郷を出たのだ。
だから。
「こちらです」
ティエリアが立ち止まり、一つの扉を示してノックをした。
だから例えば、あの扉の向うに待っているのが悪魔という名のボディーガードと家庭教師だったとしても、決して逃げたりはしない。
我ながらぶっ飛んだ例だな、と思って少し気持ちを落ち着け、刹那はティエリアに頷いて扉を開くよう促した。
扉の向う、日の光を眩しいほど湛えた部屋で待ち受けていたのは。
(え……)
「本日よりお坊ちゃまの家庭教師を務めさせていただきます、ロックオン・ストラトスでございます」
今朝、公園で刹那にバニラアイスクリームを差し出した男だった。ロックオンは慇懃にお辞儀をした後、一瞬置いてからふっと笑った。
「よ。また会ったな」
(ああ、やはり悪魔だった)
凍てついた心がまた溶かされる予感を覚えて、刹那はそう思った。


TO BE


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