いのり


宇宙は、静かなところだと思っていた。
ただの勝手なイメージだが、地上があまりにも騒がしかったから期待していたのかもしれない。空に上がれば、静寂が身を包んでくれると。
しかしその期待はあっさり裏切られた。
憎悪、歓喜、悲哀、嫉妬……、尽きることのない様々な感情の波や、埃、血、涙、炎などで地上は煩雑を極めていた。宇宙にはその煩雑さこそないものの、ひどくうるさく感じた。五感全てに纏わりつく地上とは違い、声だけが昇華されたように、果ての見えぬ黒の天井に反響していた。星々が呼応して、ますます収集がつかなくなっている。どちらにせよ、静寂には程遠かった。
それで特に落胆したということではないが、と苦笑気味に語ったことを、刹那は覚えている。妙に饒舌な自分に違和感を覚えたが、それは聴いている方も同じだったようである。ロックオンが面白そうな顔をしていたのは話の内容に対してではなかったのだと思う。
「静寂を望むには、宇宙は最も適さないところだぜ」
表情を少しだけ引き締めて、ロックオンは言った。
「……なぜだ?」
「地上の人々が、祈りをどこに捧げるか知ってるか?」
刹那の答えを期待しての問いかけではなかったのだろう、ロックオンは軽く微笑んですぐに言葉を続けた。
「空だよ。ココさ。人が自らの手で隅々まで切り開き、刻み尽くしたってのに、まだ神が空にいると信じてる。……神への祈りは全て、空に届くんだ。今俺たちがいる、この空にな」
「祈り……」
「そうだ。……そして空にいる俺達はその祈りの全てに対して応えなくちゃならない。ソレスタルビーイング──天上人としての、それが役目だ」
刹那の身体の隅々にまで、ロックオンの言葉は温かく満ちていった。
人々が空に向ける、祈り。空にいる者はそれを受け取るもので……、自分たちはソレスタルビーイング……。
じわり、ゆっくり、色濃く。
彼の言葉はいつもそうだ。心に的確に響き、それだけでなく頭の奥から瞳、腹や指先にまで染み渡る。
いつも。いつだって。
──あのときも。
そんな空が静かであるはずがないだろ?と笑った、笑顔と呼ぶには精悍すぎる眼差しが、

「仇を討たせろ」

銃口と共に向けられた、冷たく燃える瞳に重なった。
「っ……」
思い返して、刹那は身を硬くする。どうしてあのときの自分があんなに冷静だったのかわからない。死を覚悟したからだろうか。確かにあの時、死んでも良いと思った。恐らく生まれて初めてそう思った。彼になら、殺されても構わないと。
けれどロックオンは引き金を引かず、嘘みたいにいつも通り、刹那に笑顔を見せた。彼のその優しさが刹那には途方もなく巨大に感じられ……、恐ろしいと思った。銃口よりもよほど。
自分には、この優しさを向けられる権利などありはしないのに。
その思いが、刹那に恐怖を与えていた。
「悪かったな、さっきは」
ロックオンは、あの後すぐにそう言って刹那に握手を求めてきた。重ねた自分の手が震えなかったことに、刹那は心底ほっとしたものだ。
その安心は、一瞬にして消え失せたが。
ロックオンの手が、刹那の手を放した途端に。
「────ッ!!」
離れてゆく手のぬくもり。同時に体中を駆け巡る熱さ。それはロックオンが囁いた時の、キスをした時の、触れた時の、抱きしめた時の、温度。彼がくれたもののすべて。それが、一瞬のうちに全身を駆け巡り、そして。
一瞬のうちに、ざあっと全身から去っていった。

嫌だぁああああああああーーーーーーーーーーーっっっっっ!!!!!!!!

その叫びは、声にすらならなかった。頭の中で、ガンガン響いて刹那の脳を芯から揺さぶった。思わず顔を覆ったその手は、氷のように冷たかった。
あれ以来。
刹那の身体には熱が戻ってこない。





「あ、丁度良かったわ、刹那ぁー」
もう何時間こもっていたのかわからないトレーニングルームを出たところで、刹那はスメラギに呼び止められた。振り向くと、スメラギは酔っているのであろう熱があるかのように赤い頬で緩く笑っていた。
「何か用か」
「あのね、これをね……、って、なぁに刹那!凄い汗ね!一体どれくらいそこにいたのよ?」
「さあ…、五時間くらいか」
「ごっ…!?」
刹那が事も無げに言ってのけると、スメラギは目を白黒させた。気が知れない、と言ったところだろうか。けれどそれはすぐ、呆れたような哀れむような複雑な表情になる。
「熱心なのは良いことだけど…、折角久しぶりに自由な時間が取れたんだから、少しはのんびりしてもいいんじゃない?」
「……身体を動かしていないと落ち着かない」
ぼそりと言って、スメラギの顔から視線を外す。本心だった。部屋でじっとなどしていたら、思い出したくないものを思い出してしまう。そして。
「そう……」
まぁ人のくつろぎ方ってそれぞれだしね、と微笑むスメラギの声に気遣いを感じて、刹那は何となく落ち着かなくなった。
「用件は」
「ああ、そうそう。刹那、もう部屋に戻るわよね?ああ、シャワーが先かな。まぁ、その後で構わないんだけど、これロックオンに渡しておいてくれないかしら」
「え……」
ロックオン、という名前にどきり、とする。スメラギが差し出したのは見慣れた手袋だった。
「この前のブリーフィングのときに忘れて行ったのを渡し損ねてて。ほら、すぐにミッションに入っちゃったでしょう?予備は持ってたんだろうけど……」
どこか上の空でスメラギの声を聞き、刹那はロックオンのことを考えていた。
──今、会いに行く?
それは何を意味するのだろう。何が待っているのだろう。歓迎?それとも拒絶?
(っ……、嫌だ)
ロックオンはきっと正面から拒絶したりはしないだろう。笑顔で、柔らかく自分を退けようとするはずだ。……その、優しさゆえに。
拒絶されること自体ではなく、ロックオンにそんなことをさせることが嫌だった。気遣う必要のない人間にまで優しさを向けることがどんなに苦しいことか、刹那はそれが想像できないほど無感動ではないつもりだった。
だから。
「スメラギ・李・ノリエガ……、」
すまないがそれは、と断りの言葉を続けようとした刹那を、恐らく予想していたのだろう、あっさり無視してスメラギは刹那の手に手袋を押し付けた。
「じゃ、頼んだわよ!」
「え」
反論する一瞬さえ与えられず、スメラギは背中を向けた。酔っているとは思えない身のこなしで姿を消され、刹那はトレーニングルームの扉の前に一人佇んだ。
──彼に、会いに行く?
許されるはずがない。
刹那はよろめくようにしながらも、一先ず移動を開始した。こんなところに突っ立っているのもおかしな話だ。先ほどまでトレーニングをしていた時にはなんともなかったはずなのに、なぜだか今はひどく身体が重かった。首や背中を伝い落ちてゆく汗が気持ち悪い。今はとにかくこれを洗い流してしまいたかった。
シャワーの後でも良いとスメラギも言っていたことだし、とトレミーには一箇所しかない共同シャワールームへ向いながら、
(ああ)
刹那は嘆息した。なんだ。しっかり会う気になっているじゃないか。
許されないことだと、わかっているのに、期待を抑えることはできないらしい。もしかしたらと、そう思ってしまう自分がまだ心中に居座っている。
愚かだ、自分は。絶望的なまでに。そう思って刹那は更に重くなる身体を引きずるようにしてシャワールームに転がり込んだ。幸い先客は一人もなく、スペースはどこもカラリと乾いていた。
女々しい期待を振り切りたくて、じっとりした衣服を毟り取る。そのまま床に叩きつけるまでの乱暴さは、刹那には至極珍しいものだった。
かなりの高温に設定したシャワーを、勢い良く頭から浴びると、身体の重さが湯に溶けるように抜けてゆくのを感じた。そのまま瞼を閉じ、なぜ人は身体の表面しか洗い流せないのかと思う。このドロドロした心を、一緒に溶かしてくれないのか。

「人の心は、人の体温でしか溶かせないからさ」

(……ロックオン……)
いつだか彼が、そうそう言っていた。そう言っていたのを、思い出してしまった。その言葉もまた刹那の心に響きそして染み渡ったことを、思い出してしまった。
そうして刹那の胸は、ずきりと痛む。
だから、何も考えたくないのに。だから、部屋でじっとしていたくなどないのだ。こうやって、思い出したくないものを思い出してしまって、そして。
寂しさに苛まれる。
以前は違ったのに。彼がくれた言葉を思い出すたび、温かい気持ちになれたのに。彼がくれた愛撫を思い出すたび、心も身体も熱くなったのに。
どうしようもなく、愛しくて。それだけは変わらない。けれど。
刹那の身体に熱は戻ってこない。
(諦めろ)
そう、何度自分に言い聞かせただろうか。こんなに聞き分けがないとは、刹那自信も知らなかった。
もう、戻れない。元の関係には。彼の幸福を奪ったのは自分だ。だから。
(諦めろ)
そう、何度自分に言い聞かせただろうか。けれど気付けばすぐに。
(ロックオン…)
触れたい。触れて欲しい。
(ロックオン…)
微笑みかけて欲しい。抱きしめて、囁いて欲しい。
(ロックオン…)
彼のぬくもりが欲しい。
(ロックオン…!)
どうか、もう一度だけでも。
気付けばすぐに、まるで祈りのように、繰り返している。
滑稽だ。
祈り、だなんて。
自分は祈る方ではなく、祈りを叶えるべき存在であるはずなのに。
「ロックオン…」
声に出してしまって、むなしく反響するそれに耐え切れず、刹那は手で顔を覆った。
熱すぎるほどのシャワーを浴びているのに、その手は氷のように冷たかった。


  











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