いのり──2


背中が痛むような気がした。いや、胸だろうか。それとも頭か。シャワーの湯は刹那にぬくもりを与えてはくれず、痛みだけを刻み込んだようだ。しかしそれすらも正確に感じ取れなくなっているような気がして、刹那はまた少し恐ろしさを覚えた。
痛みだけは、忘れてはいけない。それだけは。
痛みを感じられなくなることは、自分が傷つけた事実を忘れてしまうのと同義だから。
(忘れては、いけない)
自分は、彼の幸福を奪った。
瞼を、ぐ、と閉じた。眼の奥がチリチリした。
ロックオンに会おう、と刹那は決めた。いや会わなければならない、と思った。自分はまだ、罰を受けていない。ソレスタルビーイングに残ることを、ガンダムに乗ることを、生きることを許されて、それで良いわけがない。
彼から与えられるのならば、どんな罰だって受けよう、と。そう、刹那は思った。
それでもインターホンに伸ばした指は震えていた。部屋の主を呼び出すたった数秒が針のようだった。
「はい?」
ドクン。
何気ないその返事一言にも、心臓は跳ね上がった。無理矢理押し出された血液が、引き絞られた管を苦しそうに流れていくのを全身で感じた。
「……スメラギ・李・ノリエガからこれを預かった」
扉の前に設置されているカメラに、刹那は預かった手袋を差し出して見せた。いつもはレンズに視線を合わせるのに、今はどうしても見上げられず、茶褐色の瞳は不自然に扉の一点を見て静止する。
「……ああ、そうか。今開けるよ」
ロックオンが僅かに息を飲むのを、刹那は聞き逃すことが出来なかった。来るべきではなかった。今更になってそんなことを思う。もう傍にいられないのはわかっている、けれどそれくらいのことでは済まず、彼はきっと姿も見たくなかったのに違いないのだ。なぜそこに気が付かなかったのかと、刹那は激しく後悔した。
扉が開いてその向うに、ロックオンの姿が見えたときに更に、その後悔は大きくなった。
(ああ……)
思わず、瞑目する。やはり自分は彼が。
「どうした?入って来いよ」
「……いや、これを渡しに来ただけだから」
いつもより少し堅い声で招き入れるロックオンに、刹那もやはり強張った声で答えた。すぐ、立ち去ろう。彼を苦しめてはいけない。そう思った。
「……そう、か」
刹那が差し出した手袋を、ロックオンはゆっくりと受け取った。
放したくない、と頭の片隅で思ったのを無視して刹那は手袋から指を離す。そして腕を戻そうとしたそのときに。
「!?」
ぐいっ、と強く腕が引かれ、刹那はロックオンの部屋に引きずり込まれた。いや、そればかりでなく。
(え…っ)
ロックオンの胸に、強く抱きしめられていた。
(なん、で…)
真っ白になった頭の片隅で、かろうじてそれだけを刹那は思った。自分の全てが動きを止めてしまったようだった。
「やっぱり許せやしないよな……、俺のことを」
頭の上で、ロックオンが言った。
(え…?なにを…)
「わかってるんだ。もう元には戻れないってことは。自分で壊しちまったんだからな。……ごめんな……。謝って済むことだとは思っていない。けど……」
彼は何を行っているのだろう。刹那は混乱した頭を必死に整理しようとした。なぜロックオンが自分に謝罪しているのだろう。違う。なんで。
「なんでお前が謝るんだ……」
唇を割って出た言葉は、ひどく弱々しく響いた。恐ろしくて、苦しくて、情けなくて。彼に言いたいことが、言わなければならないことがたくさんあるはずなのに。
「俺が…、俺が!謝らなければならないのに!」
ようやく機能し始めたらしく、刹那の全身はガタガタと震えた。
「俺は…、お前の家族を……!!」
「どんな理由であれ、俺はお前に銃口を向けたんだ」
「それが何だ!」
何を言っているのだろう。そんなの、当然なのに。なのに彼はそれを刹那に謝罪している。なんで。
「俺は、お前の家族を、幸福を、全てを奪ったんだ!!」
「刹那…、それはもう、良いって言ったろ?」
「良いわけがないだろう!!」
ロックオンの胸に額を押し付けて、刹那は叫ぶ。良いわけがない。なぜそんなことが言えるのだろう、彼は。許されるわけがないのに。
「なんで許せる…?許されるわけがない…。俺はお前がずっと憎んできた仇で、殺すべき相手だ!生きることが罰だというのなら喜んで受ける!!だから、無理をして許そうとしないでくれ!」
「刹那……」
死ねと言うのなら喜んで死ぬ。一生苦しみ続けよと言うのならどんな傷も負う。光もぬくもりも味も音も香りも、何だって差し出そう。それで彼が満足してくれるのなら。
だから。どうか罰を。それは半ば祈りだった。
「ロックオン…、俺を…、罰してく…」
「やめてくれ!!」
刹那を更にきつく抱きしめて、ロックオンが叫んだ。呼吸が震えているのを、耳に当たる吐息で感じた。
「出来るわけ、ないだろ……」
「ロック、オン…?」
刹那が恐る恐る名を呼ぶと、ロックオンは腕の力を少しだけ抜いて、覗き込むように刹那の顔を見た。もう何度も受け止めたはずの、至近距離でも強い視線を浴びて刹那は身を竦めた。
「確かに俺は…、あのテロで家族を…あのときの幸福を…俺の全てだったものを…奪われた…」
途切れ途切れに紡がれる言葉に、刹那はぐ、と瞼を閉じた。先ほど自分で同じことを言ったはずなのに、比べ物にならないほど強く胸に刺さった。
「けどさ…、俺はここに来て…、ソレスタルビーイングの一員になって…、もう一度幸福になれると思ったんだ…。刹那…、お前がくれたんだぜ?その幸福は」
「え……」
刹那は思わずロックオンを見上げた。少し細められた、美しいエメラルドを正面にしてゾクリとする。
「お前と出会って…、俺は失ったと思った幸福ってやつを、もう一度この手に出来たと思った。……なぁ、刹那……、俺からこの幸福を奪わせないでくれよ。お前という存在を……」
「ロックオン……」
名前を呼ぶのが、やっとだった。そんな刹那に、ロックオンは祈るような口調で言ったのだ。幸福。彼の、幸福。それが、この自分…?
「刹那……」
しっとりと名前を呼ばれ、刹那は震えた。ああ。やはり自分は彼が。彼のことがどうしようもなく好きなのだと思い知る。振り払うことができなかった思いをもう一度自覚してしまって、刹那は絶望に突き落とされた気がした。……ひどく甘い絶望に。
「刹那……、愛してるんだ」
「っ……」
言葉と同時にまた深く抱きしめられて、刹那は胸を詰まらせた。だって。まさか。この台詞をもう一度聞くことができるだなどと、考えてもいなかった。
「刹那…、刹那…」
上ずった声で何度も、ロックオンは名前を呼んだ。刹那は先ほどから震えの止まらない身体を一人では支えられず、彼の背中に恐る恐る腕を回して、それでも力いっぱいしがみついた。
泣いてしまいそうだ。そう思った瞬間に、目尻から熱いものが溢れた。
「刹那……」
「もう…、こうはしてもらえないと……」
「それで良い、それで仕方がないって、思ってたんだろ?」
彼の胸に顔を押し当てて頷くと、ロックオンは刹那の髪をくしゃりと撫でた。いつも受けていたはずのその行為が懐かしくさえ感じられてしまって、刹那はまた涙を零す。
「俺はお前を、苦しめたんだな……」
「そんなこと!」
ない、と言おうとして、がばり、と顔を上げた瞬間に、
「んっ」
刹那の唇は温かく塞がれた。
「……ふ……ぅぁ……」
深く、深く。角度を変えながらロックオンは甘く刹那の唇を舌を吸った。ちゅ、と湿った音を立てるそれに、刹那は背筋がぞくぞくするのを止められなかった。
は、と大きく息をして口が離れた時、ロックオンの目元が赤く色づいているのを刹那は見た。その様はとてつもなく色っぽくて、眩暈がするほどだった。
「後悔、したよ……。なんであの時、お前に銃口を向けてしまったのかって……。なんで仇を討ちたいという思いが、お前を愛しく思うのを越えてしまえたのかって……」
今度は頬にキスをしながら、ロックオンは囁くように言った。甘いのに苦しそうなその声に、刹那の胸も潰れんばかりに痛んだ。
「そして祈った……。どうか許して欲しいって……。もう一度、お前に触れさせて欲しい。そのためなら何でもするって」
「ロックオン……」
バカだよな、とロックオンは自嘲するように言った。空にいる俺が祈るだなんてな、と。
「俺も…、祈っていた」
ロックオンのキスにくらくらしながら、刹那は言った。泣いたからだろうか、声はいつもと違った響き方をしているように思えた。
「お前になら殺されてもいいと本気でそう思って……、それでももう一度、触れて欲しいと……、一度でいいから触れて欲しいと」
うわ言の、ようだった。つたないその言葉を、ロックオンは見惚れるような眼差しで刹那を見下ろしながら聞いていた。
「届いたんだな、お互いに」
ふ、と笑う。麻薬みたいな笑みだと、刹那は思った。芯から、痺れる。
「祈りが、届いたんだ」
そうだろ?と尋ねるロックオンに、刹那は頷き返そうとして。
「あ……」
それより早く熱に溺れた。


  


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