牙翼


とてもとても不思議だった。とてもとても強力なのに優しい。
唸りをあげてなぎ倒し、音もなく切りつけ、漂って惑わし、撫でて癒し、さあっと目の前を晴らす。
こんな風が生み出される瞬間を見たのは初めてだった。
いつも表情を変える多彩な風の、その渦の中で光る瞳はいつも一つ。息が、止まるほどの。





「いつ見てもすごいなぁ。惚れ惚れしちゃうよ」
紋章が閃き、三体のモンスターがあっという間に切り裂かれるのを見て、トリイはうっとりと言った。そのすぐ隣でフリックが呆れたような声を出す。
「見惚れてる場合か。戦闘中だぞ」
「ごめんなさい。でも心配ないよ。…ほら」
トリイが指し示した場所には、無残な傷跡の残る骸が三つ。もうぴくりとも動かない。
「…相変わらず鮮やかだな」
「寒気がするほどにね」
「ビクトールの奴なんかはかけらも感じないんだろうがな」
フリックが苦笑したのにつられてトリイも笑う。かれらも、はないんじゃない、と。
フリックもトリイも、紋章を宿している。紋章は宿せば誰でもが使えるというわけではなく、素質とかなりの鍛錬が必要だ。二人とも、その力を使いこなすことの難しさをよく知っている。だからこそ、今モンスターを切り裂いて見せた少年に、これほどまでに驚愕するのだ。
そう、この圧倒的なまでの魔力と、それを無駄なく使ってみせる技量に。
「初めてルックが風魔法を使ったところを見たとき」
トリイはどことなく神妙な顔つきで話し始めた。フリックはその横顔を眺めながら興味深げに聞いている。
「この人は翼だ、って思ったんだ。大きくて、力強くて、しなやかで、そして翠の。一たびはばたけば、全てを押し流す。一たびはばたけば、どこまででも届く。まるで風を生み出す為にあるような翼……」
話しながら、トリイは次第に遠くを見るような目つきになっていった。初めて見たときを思い出すかのように。大きな翠の翼を思い描くかのように。
「ほう。旨いこと言うじゃないか」
フリックがにやりと笑ったそのとき。
「何をぼさっとしてるのさ、人を働かせておいて」
冷たくて鋭い声と視線が二人に突き刺さった。持ち主は言わずもがな──トリイが翠の翼と賞した少年、ルックである。
「ごめん、ルック。すぐ行くよ」
トリイは謝りつつ、歩き出した。フリックもそれに続く。進路を確認してすばやく出発する。ルックの辛辣な注意が更に振ってこないうちに。
そう、この少年は魔法だけでなく口のほうもかなり達者なのだ。
「奴に牙がついたらもっとすごいぜ」
フリックはトリイと並んで歩きながら話しかけた。後方を歩くルックに聞こえていないか、わずかに振り返って確かめた。
「え?」
「翠の翼と対になる、紅の牙ってのがいるんだ」
「あかの、きば…。有名な人なんですか?」
「有名…。そうだな、有名だ。もっとも、紅の牙、ってのは翠の翼に合わせて俺が今作った名だが」
「紅の牙かぁ…。どんな人なんです?」
「どんな人…。あいつのことを一言で説明するのはかなり難しいんだが…。芯のしっかりした奴で、冷静で、頭も良かった。もちろん武術にも優れててな。正義感が強くてどこか人を魅了する力を持ってたあたりは、ちょっとお前に似てるかもな」
トリイはフリックの話を聞きながら、『紅の牙』なる人を思い浮かべようとしたが、どうにも上手くいかなかった。少し自分に似ている、と言われてますますわからなくなり、イメージはたちまち霧散してしまった。
「フリックさんがそこまで言うってことは相当すごい人なんですね。…会ってみたいなぁ」
「どうかな…。俺も今、あいつがどこにいるか知らないからな」
そう言いながら、フリックはまたわずかに後方を伺った。その視線は話を聞かれていないかと気にするというよりは、どこか心配するような気色を帯びていた。
「その人、ルックとも知り合いなんでしょ?対、って言うくらいなんだし…」
「あぁ。この二人が一緒に戦うときってのがそりゃあすごくてな」
「へぇ!どんなの!?」
「とても説明できないな。…目を疑うぜ」
瞳をきらきらと輝かせるトリイに、フリックはにやりと笑ってみせる。と。
「ちょっと!先頭歩いてんならもっとしっかりしてよね!」
後ろからルックの罵声が飛んでくる。何事か、と思った瞬間、二人とも前方にモンスターが近づいてきていたことに気づいた。
「悪い!」
フリックが剣を構え、トリイも顔を引き締めてトンファーを構えた。数は多くない。先ほどと同じ三体だ。
ここまで機嫌を損ねさせてしまったら、もう風魔法を見せてはくれないだろうな、などと思いながら、トリイはモンスターに攻撃を仕掛けた。





トリイがトラン共和国を訪れることになるのはそれから二週間ほど後のこと。
トリイは、紅の牙を見たときの衝撃と、そのとき翠の翼が見せた変化を忘れることができない。

  





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