──2


今でも皮肉なくらい鮮やかに思い出すことができる。





きっと、返される答えは予想がついていただろうに、彼はあえてその言葉を口にした。
「僕と一緒に、来てくれないかな」
ぞくり、と。
なんて。
なんて力を持った声。言葉。そして瞳。これを拒もうと思うなんて、それはとても愚かなことのように思えた。
知らぬ間に震えていた手をこっそりと握り締める。愚かでも、否としか答えられない。
けれどそれだけでは逃がしてくれなかった。なぜ、と冷静に問われ、ルックは言葉を捜す。
師のもとへ帰らなければならないから。やるべきことが残っているから。戦が終わるまでという約束だったから。
そんな理由は、正当だけれども陳腐だ。カリムの引力を弱めるだけの効力などかけらもない。だけど。
(駄目だ、一緒にいては)
彼のため?いいや、保身だ。それは明確なのだからいっそ。
「今の君と一緒にいたら、僕の寿命は縮むんだ」
残酷な方の理由を、語る。きっと血を見る、なんて思ってひどく痛んだ。
「……どういうこと?」
柘榴の瞳が鋭くなった。引力が、増す。
顔をそらしたくなって、でも視線は剥がせずに彼に縫いとめられたまま。
「死神」
彼の顔色が、変わった。
「今の君と一緒にいたら、僕は遠からず君の右手に喰われる。君はそれを制御できていない。喰いたがるそれを、君がいくら押しとどめようとしたところで無駄な努力さ。僕の命は、じわじわと吸い取られてゆく」
視線を外したのは、カリムの方だった。感情を消した紅で、自分の右手を眺める。
そんなカリムの全てが、ルックを揺さぶった。握り締めた拳さえも震え始めた。気づかれたく、ない。表情にだけは出してはいけない。
「それが今まで僕を喰わなかったのは、君の立っている場所が戦場だったからだ」
頭と心は、切り離すのに苦労する。もうやめろ、とどこかで声がした。それ以上言ってはいけない、と。無視してはいけないはずの警告。すれば痛みが襲うとわかっていても無視するしかない、警告。
「制御できていない状態で、なおかつ僕の命を吸い取らないようにしようと思ったら」
彼の眼はまだルックを見てはいない。どうか震えないで欲しい、と思いながら言葉を紡ぐ。
「君は僕の代わりになる餌を、死神に与え続けなくてはいけない」
「…………」
「言っている意味は、わかるだろ?君は人を殺し続けなくてはいけない」
(もうやめろ)
「三百年もの間、君の親友が他人との関わりを極力避けてきたのがどうしてだか知らないわけじゃないだろ?」
(それ、以上)
「君は僕と一緒にいることだけのために他人の命を犠牲にするつもり?戦場を点々とするのか、山賊を退治して回るか、それとも道ゆく人を刺して歩く?そうやって君は殺戮の道に…」
(傷つけるな!)
「ルック」
カリムの力強い声がルックを押しとどめる。珍しくはっきりと怒気を滲ませたその響きに、驚き慄くと同時に満足を覚えた。そう、怒ればいい。カリムが次にこちらへ視線を移す瞳は、きっと怒りと憎しみがこめられた美しい柘榴だろう。
そう、思ったのに。
「っ!?」
その閃きを確かめる間もなくルックはカリムの腕の中に抱きかかえられていた。
「ごめん」
身体の体温とともに伝わる彼の声は眩暈を感じさせるほどにリアルで。聞き飽きたはずの台詞がひどく重く感じられた。じわじわと、しみてゆく。
「ありがとう」
カリムのその一言に、全てが凝縮されていた。
彼はきっとわかっている。わかっていて、『ルックは僕と一緒に来たくないの』とは問わなかった。
「嫌なこと、言わせたね」
(やめて)
泣きそうに、なるから。
「ルック。僕は、強くなるよ」
ぐさり、と何か刺さったような音が。鈍く胸に響いて。ルックは弾かれたようにカリムの顔を見上げた。カリムの瞳が、ルックを射抜いた。ずくん、と臓腑が波打った。燦然と輝く柘榴の瞳が宿していたのは怒りでも憎しみでもなく。
「我儘だってわかってる。だけど僕はやっぱりルックの傍にいたい。だから、強くなるよ。制御できるようになってみせる。殺戮の道に身を落とさない為に。…ルックの傍にいる為に」
(なんで)
なんでそんな軽々と言ってのけるのか。これまでもずっと強くならなければ、と気を張って、苦しい思いをしてきたはずなのに。
(違う)
そんな言葉が欲しくて言ったのではないのに。強くなって欲しかったわけではないのに。苦しみを継続させるつもりではなかったのに。
「そんな顔しないでよ。ルックが悪いんじゃないんだから」
(僕が悪い)
残酷な言葉を吐いて、彼の心に血を流させて、それでも更に、
(苦しめることになるんだ)
「ルック」
カリムの腕に力がこもった。片手でそっと、ルックの頭を撫でる。拳の震えが全身に伝わっていたことにそれで気づく。
「待っていて、なんて言わないから。だけど僕は必ず、ルックの傍に行くから」
「っ……」
伝えるべき言葉が、見つからなかった。彼の瞳を見つめ続けることができず、ただ、カリムの背に震え続けていた手でしがみついた。
(こんなの)
認めてしまったようなものだ。三年間、そればかりを戒めて、許してこなかったのに。





ルックはゆっくりと、眼を開けた。
夏が近いというのにホールはひんやりとしている。石造りであるためか、湖のほとりであるためか。
どうしても、思い出してしまう。
ルックは顔をしかめた。不快だった。ここは本当に、共通点が多すぎる。
ゆっくりと、振り返った。大きな一枚岩の板。滑らかな石版に刻まれる名前は、徐々に増えていた。
天魁星の欄には、トリイという名が刻まれている。それが彼の名前でないのに違和感を覚えたのは何度くらいのことだろう。
(くだらない)
そんなに大きな存在だったのか、と誰にからかわれているわけでもないのに不快な気分になって、ルックの顔は無意識に険しくなる。周囲が声をかけるのをためらうほどに。この状態のルックに話しかけるなどというのはかなり賞賛に値する行動だと言えた。
「ルック!」
ルックの不機嫌とは正反対な上機嫌で、トリイは名を呼んだ。さすがは、とよくわからない褒められ方をされる。
「……何」
大きくため息を吐きながら、ルックは振り返った。眩しいほどのこの軍主の笑顔が、不機嫌を増幅させる。
「今度の遠征のパーティに入ってもらうことにしたんだ。打ち合わせをするから、三十分後に会議室に来て」
「遠征?」
いかにも面倒くさそうにルックが聞き返す。
「うん。よろしくね」
「ちょっと待ちなよ!」
スキップでもしそうな調子で去ろうとするトリイを、ルックは引き止めた。再びため息を吐きながら問う。
「行き先くらい伝えてってくれる?どこなのさ」
「あぁ、ごめん!行き先は、トラン共和国だよ」
「……あ、そ」
ルックはゆっくりと、眼を閉じた。





今でも皮肉なくらい鮮やかに思い出すことができる。
あの、愛しさに満ちた瞳を。


  





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