抱くべき歪み


幻を抱いている。
でも。
この温もりも、この優しさも、この雫も、決して幻ではない。
(ああ、オレは)
手に入れたものは何。失ったものは何。
(こんなにも弱かったのか)










甘さと苦みを等しく含んだ夜が明けるとき、東の空から昇ってきたのは絶望だった。










目を開けたくない。
暁光を瞼に感じながら、カイルは朝を拒んだ。
もう何度、この思いを抱いたまま一日の幕を開けたことだろう。
あと何度、この忌むべき朝を迎えたら気が済むのだろう。
目を開けたくない。
カイルは朝を拒んだ。
目を開けたくない。
開けたらきっと今度こそ。

しゅるり、
耳のすぐ近くで衣擦れの音がした。時を引き止めていた夜具が、さっと朝を迎え入れる音。隣で横になっていた身体が起き出したのだ。
その身体はしなやかに寝台を離れ、自分の周りがすっと温度を失ってゆくのを感じる。甘美なあたたかさの余韻が薄らいでゆくのに比例して濃度を増してゆく辛苦の凍え。
それは引き止めなくて良いのかと誘惑し、どうして迎え入れたのだと叱責する。
一晩中貪り尽くした身体は今、冷たい床の上で衣装に覆われてゆく最中だ。──カイルが昨夜剥いだ服に。
「……ッ」
ぐ、と唇を噛んだ。カイルが良く見慣れた衣装を一つ一つ、不必要なまでに丁寧に身につけてゆく。その様子が、目に浮かぶようで。
(オレは、また)
叫びたくなるのを必死に堪えた。何か一筋、顎を流れて行ったような気がするけれどそんなものはどうでもいい。
目を開けたくない。
だから閉じたままなのに、瞼の裏に張り付いたように繰り返される残像。カイルは両腕で閉じられた瞼を押さえた。そうすればあるいは消えてくれるかも、なんて思ったわけでもなかろうに。
そう、閉じたままなのに、瞼の裏に張り付いたように繰り返される残像。数時間前には腕の中にあった姿が。もう何年も前から恋焦がれた姿が。
同じであるはずのない二つの姿が、ぐるぐる回ってイコールで繋がる。
そんなわけはないのに。
あの髪は作り物。あの声も作り声。あの台詞も用意されていた嘘だし、あの視線は計算された罠。あの背中もあの腕も足も頬も唇も!
わかっている。そんなことはわかっている、わかっているわかっている!!
「っ───!!」
歯が、深く食い込む。唇はもうすぐ千切れるのではないだろうか。
目を開けたくない。
開ければきっと今度こそ。

彼を殺してしまうだろう。

ばさり。
布が広がる音。残像を蘇らせた原因であるところの着替えが、終わった音。常備してある白い大きな布を、彼はわざと大げさに音を立てて広げたのだ。
彼はその白布に、着替えたばかりの自分の身体を丹念に包む。頭のてっぺんから足の先までがしっかりと隠れるように。そして。
目を開かなくていいのか。行かせていいのか。どこかでそんな、声がした気がしたけれど。
そして彼はゆっくりと、

ばたん。

カイルの部屋を出てゆく。

「は…………」
急に静寂が訪れたような錯覚。もともと静かだったはずの部屋に。
口の中がじわじわと錆び始め、カイルはようやく唇から歯を離す。そっと舐めると、ぴりりと沁みた。しまったな、と思う。しっかり傷になってしまったようだ。きっとこの傷はすぐに見つかってしまって、大げさに心配されてしまうだろう。
どうしたのカイルその傷…、痛そうだよ大丈夫?って、そんなふうに
(王子が)
「っ!」
一瞬にして凍てつく思考。
いつから自分はユズが鬼門になってしまったのだろう、とカイルは泣きそうな気分になる。彼はいつだってカイルに幸福を吹き込んでくれたのに。
いつだって。今だって。
ただカイルが、それを幸福だと感じられなくなってしまっているのだ。
変わってしまったのは自分。変えてしまったのは誰。
どうして繰り返してしまったのか、どうして諦めきれないのか、どうして殺してしまわなかったのか!
(どうしてオレはまたっ…!)

目を開けたくない。
カイルは朝を拒んだ。
本当に拒むべきは夜のはずなのに。

「ロイ……っ!」

昨夜は一度として呼ばなかった名を、搾り出すように呼んだ。
その声に込められたのは、後悔か、悲哀か……、憎悪か。










目を閉じてはいけない。
暁光に目を眩ませながら、ロイは朝を迎え入れた。
起き上がるには覚悟がいる。
罪悪感に蓋をしながらも、自分の罪は認めなくてはいけない。
自分一人が悪いわけではないと、わかっていてもそれはなんの慰めにもならない。むしろ、自分の浅ましさと愚かさを強調することになるだけだ。
目を閉じてはいけない。
ロイは朝を迎え入れた。
覚悟はしている。
きっと、きっと今朝こそは。

するり、
ロイは静かに起き上がった。どうせもう眠ってはいないだろうが、目を閉じたまま隣に横たわっている男を起こさぬように。けれどしっかりと自分が起き上がったことが彼にわかるように。
出来るだけ、隣を見ないようにしながら、ロイは床に降り立った。寝台に背を向ける。剥き出しの肩が、背中が、ひゅっと冷えた。
眼下には、昨夜ロイが身につけていた服が散らばっている。自分が普段身を包んでいるものとは異なる、凝ったデザインのそれは、灰色の冷たい床を鮮やかに彩っていた。これを──、彼の手がすべて剥いだ。
(オレは、また)
目を逸らしたくなったけれど、あえて直視して。ロイは床からそれを拾っては素早く纏ってゆく。
「……ッ」
背後で、彼が息をつめるのを感じた。指先が、震える。彼はきっと今、衝動と戦っているのだろう。
(んな必要なんか、ねぇよ)
自分を律することなど、しなくとも良いのに。ロイはそっと瞼を閉じる。呼吸を乱さぬようにと気を遣えば、着替える速度は遅くなる。それに苛立つように、背後で彼の苦しむ気配が濃くなる。嫌がらせだと思ってやがるんだろうな、と唇だけで苦笑した。
震える手でゆっくりと着替えながら、ロイは自分の肌に目をやった。この躯に彼の手が触れたのだ、と思うとじわりと奥が熱くなる。触れている間に一瞬でも、自分のことを考えてくれたかもしれない、なんてそんなことはもう、考えないと決めたはずなのに。
触れたけれど触れていない。わかっている。この首に、腰に、腕に、足に。手が触れたけれど。耳に頬に腹に背に唇が触れて声が触れた。だけど。
違うんだ。それは違う、違う違う違う!!
(クッソ……!)
叫びだしそうで、きつく唇を噛んだ。背後でどんどん濃くなる辛苦。眩暈がする。くらり、視界が揺れるけれどそれでも。
目を閉じてはいけない。
朝を迎え入れたのだから。
覚悟はしている。
きっと、きっと今朝こそは。

彼が殺してくれるだろう。

がつり、
サイドボードの上に畳まれていた白布をつかむ。皮肉を効かせて大げさに、なんて考える余裕もなく乱暴に広げ、頭から足までをぐるぐると包む。
銀の髪が見えぬように。赤い衣装が見えぬように。決して決して、見えぬように。
何度も何度も、確かめた。きちんと隠れているかどうか、何度も。そうやって時間を作っても、彼は起き上がってこない。
ロイはゆっくりと、扉まで歩いた。
いいのか。このままオレを、行かせていいのか。

生かせて、いいのか。

声には出さずに問いながらロイは、

ふらり。
一夜過ごした部屋を去る。
「〜〜〜〜ッ!!」
扉が閉まるや否や、ロイは走り出した。
(クソクソクソっ!!)
どうして繰り返してしまうんだ、どうして見てくれないんだ、どうして殺してくれないんだ!
(どうしてオレはまたこんなっ…!!)
白布が足に絡んで何度も転びそうになる。それでも止まらず全力で走る。ぐんぐん風を切る速さが不覚にも心地よくて忌々しい。
どれだけ走って、どこまで来たのかもわからぬまま、だんっ、と石壁に手をついた。
「はあ、はあ、はっ、はあチクショっ……」
ああ、もう。
(わけわかんねーよ、オレ)

目を閉じてはいけない。
ロイは朝を迎え入れた。
本当に迎え入れるべきは真実なのに。

(カイル……っ)

昨夜は何度となく呼んだその名前を、どうしても呼ぶことが出来なかった。
自分の声では。




  







SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送