──2


どうしてなんだか。いつからなんだか。










空は空々しく明るく、青かった。
昼寝をするつもりだったのに眼が閉じられなくて、寝転んだままぼうっと眺め続けた。
『待てよ』
朝をすぐ隣に待たしていた危うい夜の中で、辛うじて捻り出された声。いつもは軽やかな台詞を滑らかに届ける明るい声が、同じ人物から発せられているとは思えないほど重く、暗い。
彼のこんな声、こんな台詞を聞いたことのある人物がどれだけいるだろうか、などと考えてぞくりとする。
それなのに「ごめんねカイル、起こしちゃった?」と即座に答えられる自分が、呪わしかった。
『その格好のまま出て行くな』
ええ?と可愛らしく首を傾げると、カイルは剣呑に光らせた眼を忌々しげに逸らした。
『オレと王子が、なんて噂が立つようなことだけは絶対にするな』
そして自分の下に引いていたシーツを引き剥がして、ロイに放った。
(……つまりオレは汗と精液まみれのシーツ被ったわけだよな、あン時)
初めての夜のときのことだ。
(初めて、だとさ)
くくっ、とロイは喉から笑いを漏らす。そんな可愛らしい言葉は実に不似合いだ。正しくは。
初めてカイルに『ユズのふりをしたロイ』を抱かせた夜だ。
あの夜に、何かが酷く捻じ曲がってしまった。
思い出すもんじゃねぇなぁ、なんて思って自嘲する。傷つけることで傷ついている、だなんて尤もらしくも陳腐なことを言うつもりはない。どこまでもいつまでも、ロイは確信犯の加害者だ。
そうでなければ、ならない。
(カッコわりィよなぁ、オレ)
何やってんだか。何がしたいんだか。……イライラする。
「っせ!」
眠れない、と諦めて体を起こす。寝転んでいたのは湖の上、桟橋の上。水面が太陽の光を反射している。
誤算だった、なんてもう言えなくなってしまった。たった一晩でこんなふうになってしまうとは、思っていなかった。
もっと笑い飛ばしてくれるかと思ったのに。目覚めたら、バツが悪そうに笑って、『あーあ、カッコ悪いなぁ、オレー。ロイ君を王子の代わりにしちゃうなんてなー』とか何とか言いながら頭を掻いて見せる…。
きっとそうなると、思っていたのに。
誤算。
あんな、暗い声。悲壮な顔。
反則だ。
(そんなに好きだったのかよ)
そんなにも、想っているのか。
打ちのめされた。
(と、いうか、何というかさぁ……)
途方もなさ過ぎる。
出口が見えない。いつまでたっても見える気配すら、ない。……イライラする。
ロイは別に、カイルがユズのことを想っていることに対して苛立っているのでは、ない。そりゃあ、
(愉快じゃねぇけど)
でも、そうではなくて。
どうして諦めてしまっているのか、ということ。
手に入れる努力もしないで、悟った、なんて言い訳をして最初から諦めて。それなのにまだ失速しないまま想い続けて。
嫌われたくないから?
バカみたいだ、とロイは思う。どうせもう、『ただ一人の愛すべき特別』にはなれないと諦めているのなら、今更嫌われないようにすることにどれほどの意味があろう。
滑稽だ。
「厄介な奴好きになっちゃったよなぁ、オレ」
口に出すとサムいなぁ、と思って思い切り顔をしかめた。それを映す水面が揺れて、更に崩れる。醜いったらない。
醜かろうと、何だろうと。手に入らないとわかってても。それでも愛しいと思うから。好きになって欲しいと思うから。無理矢理にでも手に入れてみようって。
(そうは思わねぇのかなぁ)
その結果がやっぱりダメで、やっぱり手に入らなくて、なおかつ回復不可能なくらいに嫌われてしまったとしても。それでも好きだから。この身が果てるまで噛り付いていようって。
(……そうは思わねぇんだろうなぁ)
向こうの方が思っているかもしれない、『厄介な奴に好かれてしまったものだ』と。
(オレの方が滑稽だ)
くくっ、とまた喉で笑う。
そもそもどうして好きになってしまったんだっけ、と方向転換した思考は。
「ローイ!」
遮られて動きを止めた。
「何やってるの?」
首をかしげて尋ねながら、ユズがてくてくと桟橋をやってくる。隣にちょこんと座って、ロイに笑いかけた。
「別にー?昼寝しようとしてただけ」
「ふうん?しようとしてた、ってことはまだしてないんだ」
「失敗したんだよ」
「ああ」
ユズは勝手に納得してうなずいた。
「天気が良すぎるのも困りものだよね」
なんだそりゃ、とロイが笑うのに笑い返して、それにしても、とユズは呟く。
「綺麗だなぁ」
首を反らせて真上を向き、視界いっぱいに空を見てユズはきらきらした声で言う。
空々しく明るい。
上を見てるからってばれないとでも思ってるのかよ、とロイは顔をしかめる。
そんな悲壮な顔で見つめられたら、いくら雲一つないあの空だって泣きたくなるだろう。
小さくチッ、と舌打ちすると、何が可笑しいものかユズはくすくす笑いながらロイを見た。そして声だけは恐ろしいほどに真面目に呼ぶ。
「ロイ」
「…何だよ」
「許さなくて良いからね」
「はあ?何がだよ?……そりゃあ、」
こっちの台詞だ、と続けられなくて口ごもる。それこそ何故、と問われたら答えられない気がした。
許す許さないの問題ではないのに。
(そもそも、何に対してだよ?)
何を知っていて、どこまでわかっているのか計れないから迂闊な発言が出来ない。
ってかそんな心配はいらねぇかもな、なんてちょっと自嘲気味にロイは思った。ユズが、全て知っていて当事者であるロイよりもわかっている可能性はかなり高いだろう。
「許さなくて、良いからね」
ユズはもう一度言った。
憎めないよなぁ、と思う。
逆恨みでも何でもいいから、この王子を嫌って、憎んで、恨むことが出来たなら、ロイの心中はもっと単純な悩みに落ち着いていただろう。こんな、どこに矛先を向けたらよいのかわからない苛立ちに苛まれることは、たぶんなかっただろう。
考えたって、仕方のない「もしも」だけれど。
「……あのよ、王子さん」
何の台詞も用意せずに、ロイは口を開いた。呼びかけてしまってから続ける言葉を捜して口ごもる。ったく情けねぇな、と胸中で自分を罵った。
「ロイはー、カイルのどんなとこが好きなの?」
「…………は?」
不意を突かれてロイは間抜けな声を上げてユズの顔を凝視した。ユズは先ほどからずっと空を見上げていたが、今はにっこり笑ってロイを見ている。本物の笑顔だ。
「いや、あのな?何言ってんだ?」
「お互いやめにしよう、遠まわしなのは。ロイが僕の好きな人が誰かってことに気付いてるのと同じように、僕だってロイが誰のことを好きなのかくらい、気付いてるんだよ?」
「……王子さんの好きな奴ってさ」
「うん、ゲオルグ」
ユズは微笑んでさっぱりと頷いた。幸福そうな、寂しそうな、何かを慈しむような、そんな微笑。
「群島行く前に来た奴、ってか、一緒に群島行ったあの眼帯の奴だよな?むちゃくちゃ強そうな」
「強いよー、ゲオルグは!戦ってるとこは、そっか、ロイは見たことないんだ。僕はあれを後ろから見るのが凄く好きなんだ…、って、ごめん、キリなくなるからやめとく」
へへへ、と嬉しそうに笑ったユズの顔は、照れくさそうにしつつも無言で逃がさない、とロイに告げていた。
(これだからなぁ)
ただ無邪気、というわけではないところが、逆に憎めないのだとロイは思う。
「で、ロイはカイルのどんなとこが好きなの?」
「…ってかオレ、あいつのこと好きだって言ったか?」
「言ってない。違うの?」
「……違わねぇ、けど…はーっ、かなわねぇよなぁマジ」
思わず、ため息が出る。頭をがしがしと掻いて、ユズの顔を横目で見た。彼はうふふ、と楽しそうに笑いつつも、違う感情を含んでいるように思われた。そのことにまた、はああ、と息をつく。
「そんなにため息が出ちゃうほどに思い詰めてるの?」
「そういうわけじゃ、」
ないこともないか。
急に心配の色を濃くしたユズの顔に、ロイは苦笑して首を横に振って見せながら、実際これを思い詰めてるというのだろうなぁ、なんて考えていた。
思い詰めるとか、そんな雰囲気ではなかったのだ、最初は。そう、
「最初は、ただ眼に入ってきただけだったんだよな」
ユズを観察しているといつも、視界にその金色が加わってくる。だから一緒に見ているだけだった。ただなんとなく、
「面白い奴だよなぁ、って」
それはカイルに限ったことではなくて、ユズもリオンも、これまでには出会ったことのないタイプの人間で、見ているのは本当に面白かった。でも何だか。
「なんか、さ。そのうちに」
彼にばかり眼が向くようになった。ふと気付くと、動きを追っている。そうして、気付く。
彼が我慢していることに。
「気になって仕方がなくなって」
「……うん」
独白のように続くロイの言葉を、ユズは大人しく聞いていた。空でも水面でもないところを彷徨うように見つめるロイの視線を、辿るようにして。
ユズが聞いていることはもちろんわかっていたし、見られているのも感じていたけれど、ロイの思考は止まらなかった。何を口に出していて、何が胸に留まったままなのかもよくわからない。まぁどっちでもいいか、などと思ったかどうかも定かではなく。ただ。
彼のことを考えていた。
そう、気になって仕方がなくなって。それがどうしてか、なんてのはどうしたって説明できそうもないけれど。
ああ、あいつ、
「あんなに綺麗なのにどうして、って」
どうしてあんなにも美しく悩んでいるのだろう。どうしてあんなにも美しく諦めているのだろう。
「そう、思って」
「……うん」
そう思い始めたら、じっとしていられなくなった。
(そんだけ、なんだよな)
言葉にしてしまえば、ただそれだけ。だから。
「どんなとこがどう、とか。結局、良くわかんね」
ははっ、と軽い笑いが漏れた。空々しく響く。なんだか寂しくて、忌々しい。
「そっか」
ユズも軽く答えた。ロイは、自分の顔から視線が外されるのを感じて、今度は自分がユズを見る。
「……あのよぉ。何で王子さんがそんな顔するんだよ?」
もっと自分のこと考えろよ、と言いたくなる。これだからある意味、リオンとはバランスが取れているのだろうか。
「そんな顔って、どんなかおー?」
「痛いの我慢してるようなかおー」
ユズが可愛らしく小首をかしげてロイを見るから、ロイも冷めた笑いで応戦してやる。ユズは心から楽しそうにあはは、と笑った後で、今度は隠さず憂い顔になった。
「だって。ロイが痛そうだから」
「……それ、誰かに言うなよ?」
痛くねぇって、と言うのはやめにして、ロイはにやん、と笑う。
「なんで?」
「オレの所為で王子さんが怪我して痛がってる、みたいな話に変換されっから、絶対。んで、オレが怒られんだぜ、絶対」
「誰に怒られんのー?」
「そりゃ、リオンに」
顔を思い切りしかめて見せると、ユズは口を尖らせた。
「そっかー。リオンかー」
「何だよ?」
何が言いたいのかは伝わったから、それ以上口にするな、と今度はロイが無言で告げる。ユズは正しく受け取ったようで、仄かに微笑んだ。
「別にー?あっ、僕これから会議だった!」
「忘れんなよな…おら、早く行けよ」
「うん。……ロイ」
立ち上がってまた一度、空を見上げ。そのままの格好でユズはロイの名を呼んだ。
「あ?」
「ありがとう」
そしてロイの顔をみることなく、ぱたぱたと去った。
「……何もしてねぇっつの、オレは」
ロイは、桟橋に一人。遠ざかってゆく背中を見ながら呟く。空々しい空の下の、真っ直ぐな背中。あの背中をもし。
傷つけたなら…?
(は?)
いきなり降って涌いたその考えに、ロイは素直に混乱した。
(なんだよそれ…。そんなん、決まってんじゃんよ…)
そうだ、決まっている。
(あ……)
いきなり降って涌いたその考えに、ロイは思わず顔を覆った。なんて、なんて。
なんて途方もない。
愚かだ。自分はどうしようもなく愚かだ。だけどこんなふうにしか。
だって、今度もきっと彼は。
ああ、なんて、愚か。
「大丈夫だ、王子さん」
もう彼が他人の痛みを我慢することなどなくなる。
だってもうすぐ。
「ごめんな…」
痛みは消えるから。




  


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