──2

風を感じた。湖から吹く風だ。いつもルックの一番近くにあるそれが、今は何故だかとても不釣合いなものに思われた。
けれどその風がくれる心地よさは誰にも平等だ。いや、不釣合いであるというのに今日はいつもよりも余計にもらっている気がした。
頬を撫でる翼。法衣をはためかせる吐息。そして全てを包む温もり、は……?
「気分、どう?」
うすら、と瞼を開くと、囁きと共にカリムの微笑が出迎えた。
そよ風にバンダナの裾と黒髪をなびかせ、背後には澄みきった青い空が見える。それはまるで一枚の絵だった。
「カリム?」
「うん」
「……どこ」
「桟橋の上。部屋に運ぼうかと思ったんだけど、こっちの方がいいかなって、なんとなく」
「……カリム?」
「うん、そうだよ」
起きぬけの朦朧とした頭から繰り出される間抜けた問いにも、カリムは優しく丁寧に答えてくれた。
次第に意識は取り戻され、彼の膝に頭を預ける姿勢で寝ていたのだと知る。彼は抱え込むように、両腕をルックの胸に乗せていた。
そう認識できるようになると、意識を失うまでに自分がしたことが思い出されて苦い思いが胸を満たす。何を言ったか定かではないが、そのことが余計に苦味を増した。
ひどく、取り乱した。一切の余裕を失っていた。
カリムにわからぬよう、ごくごく小さくため息をつく。羞恥よりも苛立ちを感じる所だが、この場のあまりの心地よさに散らされて少しの気恥ずかしさだけが残った。
ゆっくりと身を起こそうとすると、彼は本当に自然に手を貸して、そのまま膝に据わらされた。もてるはずだ、これでは。
(あ)
心地よさに気を取られて忘れていた。心地よいと言うことは、そういうことなのに。
「手」
「え?」
「大丈夫なの」
先ほど取り乱したことの気まずさから、いつもよりも言葉少なに問う。
「……うん。ルックのおかげで、ね……」
「別に。何もしてない」
「ううん、ルックがこうやって傍にいてくれたから。ありがとう。……ごめんね」
カリムはぎゅう、とルックを抱きしめた。背中から伝わるぬくもりは、口の中に上等な蜜を流されたかに思われた。
「ルックがあんなに苦しそうだったのは、本当はこれの所為だったのにね。不愉快なことを聞いたからじゃ、なかったのに。気付かなかった……、自分の痛みに精一杯で」
「それで通常だろ。自分の痛みに堪えていただけでも本当は信じられないくらいなんだ」
「でも。ルックの不調は何よりも早く気付かなければならなかったのに。……ごめん」
「……」
(謝らなければならないのは)
「……僕なのに」
「え?」
小さな呟きを、カリムは聞き逃してくれたようだ。追求されぬうちに、とルックは逆に追求を開始した。
「いつからなの」
「何が?」
「その痛み。昨日今日のことじゃないはずだろ」
そう。それなのに今日まで自分は気付かなかった。ルックは緩く唇を噛む。本当は噛み締めてやりたい所だが、痕がつくとまたカリムがうるさいのだ。
「……やっぱりルックには隠せないなぁ」
(嘘つけ)
諦めたように言うカリムに、ルックは苛立った。今まで完璧なまでに隠してきたくせに。それでも気付けたはずなのに気付かなかったのはやはり自分の非であるが。
そして、
(隠せないとわかっているくせに、それでも隠すんだろう?)
痛みだけならまだいい。でも、素顔さえも隠してしまうのは。
「なめられてるわけ、僕は」
「えぇ?」
「いつから?最近、それは使ってないはずだろ」
呟きにいちいち反応するカリムに、ルックは強い調子で促した。ここまで苛々が募ってくると心地よさなど役に立たなくなる。
「うん……。今まではこんなことなかったんだ。使った次の日は必ず痛みはしたけれど。そう、まるで食べたものを消化してるみたいに…。でもこんなふうに相当酷く痛むのは酷使した後だけだった。それが…たぶん父との戦いが終わってからだと思う。頻繁に痛むようになったんだ」
父──テオ・マクドールとの戦争。苦しい戦いだった。もう随分と前のことになる。三ヶ月にはなるだろう。そんなにも、長い間。
「消化じゃない、んだ。明らかに。まるで、これから更に嫌なことが起きると暗示しているように思えて……、」
恐ろしささえ感じた。
口に出しはしなかったけれど、言いたいことは触れ合っている身体から伝わってきた。
そうか。「だから」なのか。
今更になって彼のかぶる仮面がこんなにもはっきりと見えてしまったのは。顔面全てをすっぽりと白く覆い、その下に見える健康的な首だけがリアルだったのは。
恐ろしさを隠してしまおうとしていたからなのか。
それは今までも持っていたはずの恐怖。
この先、何が起こるかわからぬ。どんな地獄が待ち受けているか見当もつかぬ。
そんな思いを、疼き続ける右手の痛みが増殖させる。
家を失い、仲間の恋人の魂を喰らい、付き人の魂を喰らい、父の魂を喰らい。殺気に満ちた戦場を駆け、そこに累々と横たわる戦士の遺体を見下ろし。血に染まった己の身体を見下ろし。
もう地獄の名所は見尽くしたはずだ。それでもまだ、更に酷いものが待っているというのか?
ルックは全身で身震いした。これが、カリムの感じている恐怖。
想像しただけでも震えが止まらぬというのに。実際に感じている彼はどんな気持ちなのだろう。それを押さえ込むことはどれだけの努力が必要なのだろう。…ソウルイーターの痛みと共に。
(底が、知れない……)
「ルック?」
震える指先を、そっと包まれる。顔をうかがおうと覗き込んでくる。
それでもまだ、
(彼は僕を気遣うのか)
なんて、なんて───────途方もない。
すう、と顔を上げてカリムの顔を見る。体勢からしてかなり無理な向きだったが、気にならなかった。
(ああ)
今は、見えないけれど。でも、今もきっと。
(仮面がそこにあるのだろう)
当然のように、カリムの顔が近付いて、ルックの唇にキスをした。ルックももはや何の疑問も持たずにそれに応える。
甘い、と思った。頭の芯が揺さぶられてとかされる感覚を味わう。取り入れられる酸素が薄いことも、それを加速させていた。
「ん……」
彼の唇が離れていく際に洩らした声がどこか残念そうな色を帯びていて、ルックは羞恥に頬を染めた。カリムはただ穏やかに笑っている。
(それがまた腹が立つんだよッ)
「ルック」
「…何」
囁くように名を呼ばれて小さく答える。
「立てる?」
「からかってるわけっ?立てるよ!」
かっ、と血が上って抱きしめるカリムの腕を振り払い、勢い良く立ち上がると、桟橋に近付いてくる人影を見つけた。まだ、随分と遠いが。
「ああ、シーナか」
後を追って立ち上がり、カリムが言った。
「さすがにこの距離じゃ誰かまではわからなかったからね」
「……誰かが近付いてきてる、ってことはわかってたわけ?」
「うん、まあ」
なんて奴だ。戦いに身を置くものとして気配を読み取るのはある程度出来ることなのだろうが、この距離で感じ取れるのは相当なものだろう。
内心で舌を巻きつつも、ルックは不機嫌な表情を崩さなかった。と、それをいいように解釈したのだろう。
「邪魔されちゃったね、ルック」
なんて言いやがった。
「バカ?」
きっ、と睨み、更に一言言ってやろうとしたが、今度こそ本当にシーナに邪魔をされた。
「やっぱここにいたか。マッシュが探してたぜ」
「シーナがマッシュのお使いをするなんて珍しいね。さてはアップルに頼まれた?」
「あのな……。んなことより…、急ぎみたいだから早く行った方がいいぞ」
「何か、あったのか?」
(あ……)
どくり、と心臓が大きくざわめいた。
「偵察団の一部が戻ってきた。北側の湖岸付近に盗賊団がたむろしてるらしい。周囲の部落が随分と被害を受けてるそうだ。まだ確かじゃないが帝国の息がかかってる可能性もあるとか言ってたぞ」
「それは……早急に詳しい話を聞いた方がよさそうだね」
(見えなく、なってく……)
白い仮面が、徐々にカリムの顔を隠していく。
「ああ。マッシュに言われてとりあえず親父には声をかけてきた。後はお前の指示を仰いで人を集めて来いってことだが」
「そうだな…。あまり騒いで大事にしたくない。ビクトールとフリック、バレリアを呼んでくれ。あと、位置の確認をしっかりしたいからテンプルトンも来て貰って」
(嫌だ……カリムじゃ、なくなってく……)
そして、首だけを残してすっぽりと覆ってしまった。
「わかった。じゃ、すぐ来いよ」
シーナが立ち去って、彼は顔をルックに向けた。
「ルック?大丈夫?また顔色が悪いよ?」
「…平気」
「ホントに?気分が悪いなら休んでてね。無理してこっちに来なくてもいいから。…ごめん、ホントは一緒にいたいんだけど」
「いいから。早く行きなよ」
ルックは追い払うように手を振った。実際、仮面の顔など見ていたくなかった。痛い。本当に痛いのは彼なのに。
「うん…、じゃあ、行くね?」
パタパタと足音を立てて、軍主はかけて行った。
その背中を、沈鬱な思いで見詰める。
軍主であるが故に感じている恐怖。その為に張り付いている仮面なら、外すことは出来るはずだ。
(君の恐怖を拭い去ろう。その仮面を外してしまおう)
それが仕事でもあるから。天魁星についてゆかねばならないから。仮面をつけた天魁星は、本物とは言えない。
(どうして)
そんな言い訳をするのだろう。
カリム・マクドールについてゆきたいから、本物のカリム・マクドールが見たいから、とどうして思えないのだろう。
そんな哀れな自分を洗い流すように、ルックは風を呼んで転移した。





  


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