──4

消してしまおう。










ひたり、ひたり。
夜の城内、裸足で踏みしめる石畳は、心と同じ温度だった。
いや、逆だろうか。歩く先からこの足で、石畳を凍えさせているのかもしれなかった。
静かな、夜だった。足音以外は僅かな音も聞こえない。今なら髪が一筋落ちてゆく音さえも耳に響きそうだ。
ゆっくり、ゆっくり。遅すぎるほどの歩調は、まるで夢遊病者のように思われたが、意識ははっきりとしていた。これから向かう先も、そこで何をするのかもはっきりわかっていた。
だからこそ、異常だった。
冷静でいればいるほど、この狂気が冷えていればいるほど、異常な状態だと言えた。
だって。
この足で向かう先は。
向かった先で行うことは。
(……っ)
この身体の震えは夜の冷気の所為か。それとも。
(冷え切った己の心の所為か)
ルックは、足を止めて目の前の扉を見据えた。目的地は、この中。
引き返すなら、今。
けれど。
そんなつもりはなかった。
だって。悩むことも苦しむこともなくなるのなら。絶対にその方が良いではないか。
(簡単な話だ)
ルックはノブに手をかけた。その、刹那。
「!」
脳裏に浮かぶのは、昼間の光景。
横たわる屍、腕ごと転がった半月刀、うめく声。飛び散り、流れ出る紅い血。紅い、紅い、紅い。彼の瞳、紅い、見えるはずの。あれがなければ見えるはずの。首から上が、あの、あの、白い────
「ッ!!」
ルックは自分の腕に爪を立てた。薄い夜着を突き破りそうな鋭さと圧力で。もしかしたら布よりも、先にその下の皮膚が破れているかもしれなかった。そんなことは気にするに値しなかったけれど。
だめだ、異常を異常だと思ってしまっては。そんなのは正常であるのと大差ない。それは今、全く必要としないもの。
ノブが汗ばんでいるのを無視して、慎重に引く。扉は音もなく開いた。
その向こう、一人横たわるのは、もちろん部屋の主。
解放軍軍主、カリム・マクドール。
ひたり、ひたり。
するのかしないのかわからぬほどの足音も、もしかしたら彼には滝壷の轟音のごとくに聞こえているのかもしれない。
ぞくり、ぞくり。
自分しか感じていない零度の悪寒も、もしかしたら彼には凍てた湖に浮かぶかのごとく伝わっているのかもしれない。
そんなことを思いながらもしかし、ルックはどくり、とも心音を乱してはいなかった。
今この視線のすぐ下にある寝顔が、本当に眠りの中にあるはずがないとわかっていても。
だって、これはカリムの寝顔じゃないから。
こんな白い顔は、彼のものじゃないから。
ルックは寝台に上った。膝立ちで彼の身体を跨ぐ。そうして、また改めて見下ろして。
ああ、
(やっぱり、見えない)
カリムの顔ではない。こんなものは、こんなものは、こんな白い仮面の顔は!
嫌だ。この身体の上に、この首の上に、こんなものが乗っていてはいけない。この、首の上に首の上に首の上に首の首の首の首、首、首、首、首…………
両手は、彼の首に添えられていた。指を、しっかりと絡めて。
こんな仮面はこんな顔はこんな偽者はこんなものは、こんなものはこんなものは……!!
(いらない!)
───己を煩わすものは、消してしまおう───
「っ……」
指に力を込めて、手に全ての体重をかけて。この震えは筋肉を使っているからだと信じて。もう、これで。これ、で
「なのに…」
なんで。
なんで見えないはずのその紅い瞳が見えてしまうのか。なんでその柘榴の宝玉に射止められてしまったのか。
「どうしたの?」
「……ッ」
「そのまま、絞めてしまってよ。さっきみたいに体重かけてさ」
指は首にまとわりついたまま、それでも力は確実に、急激に失われていった。指先が震えだして、そこさえも冷え切っていたのだと気付く。
「ルックにいらないと思われたのなら、それは軍にとっていらないのと同意だ。……ごめん。そんなことが言いたいんじゃないんだ、本当は」
ルックはぴくりとも動けず、目を見開いたまま固まっていた。いや、厳密にはそうではない。がたがたと震えたまま。
「僕はルックの苦しみの原因だから消えるべきなんだ。ルックが苛立ちを、怒りを、焦りを感じるのは、僕の所為なんだろう?だから、殺しに来たんだろう?」
彼の台詞は、ひどく淡々としていた。本当は、違ったのかもしれない。けれど、空っぽな状態の今のルックには、そう言うふうにしか感じられなかった。
苦しくないはずかないのに。力が弱まったとはいえ、ルックの両手はまだしっかりとカリムの首を捕らえたままだ。苦しくないはずが、ない。なのに彼はそんなそぶりを微塵も見せずにもっと絞めろと言う。
「あ……」
急に、恐ろしくなった。
やっと、恐ろしくなった。
(何を……何をしているのだろう)
「好きに……していいんだ」
いきなり聞こえた声に、ルックはびくりと身を竦ませる。今までとは天と地ほども差がある、響く声。声が変わったのではないことは明らかだったけれど。
「ルックの好きに、していいんだよ。もう、苦しまないように……」
どうして淡々としているなどと思ったのか。彼の声にはこんなにも、こんなにも感情が詰まっていると言うのに。優しさが、溢れんばかりに。
「殺してしまって、いいんだよ。僕は、ルックを愛してるから……」
「っ……!」
ルックが息を詰めて唇を噛んだ瞬間。カリムの瞳がはっとしたように見開かれた。ルックの顔に表情が映されたからであろう。
「ルック?」
それでもまだ、動けずにいた。身体は彼の上に。両手は彼の首に。眼差しは、彼の顔に。
殺してしまっていいと、彼は言った。そうしてしまうつもりだった。だけど。
(出来るはずがなかったんだ)
そう。わかっていたことなのに。彼を殺すなんて、絶対に出来ないと。例え今のように彼が全く抵抗せず、その上この行為を容認したとしても。
(考えられなかった、ことなのに)
彼があの盗賊たちと同じ骸になってしまうなんて。なのに、なぜ。
(なんで)
そうだった。そんな問いは、意味がない。
憎しみとか、愛情とか、そんな言葉で解決されるはずもないのだ。
「……殺さないの?」
震えを増す、その声。出来ない、と言うことも出来ずに。
「殺さないのなら……」
不意に、両手首をつかまれ、ぐい、と持ち上げられる。カリムがすい、と身を起こしたと思ったら。
「ッ!?」
背中に手を当てられ、ぐるり、と身を反転させられた。どさり、背中に当たる体温。先ほどまで彼が横たわっていた、ベッドの上。
「返り討ちにしてしまうおうか?」
柘榴の瞳に見下ろされ、首に彼の両手が添えられる。閉められているわけではないのに、息が詰まる。
カリムがここで殺すはずがないのに、恐ろしさがこみ上げる。けれどそれと同時に沸き起こる安堵。
彼になら
(殺されてもいいか)
ああ、こんな思いをさせていたのか、と思う。
彼にも、今の自分と同じ思いを。彼に殺されるという恐怖。彼が殺してくれるという安堵。二つが入り混じった奇妙な思いを。
ねえ。殺してしまってよ。その手を、絞めて。
愚かな行いをしてしまったことを、後悔しなくてすむように。…そう、返り討ちにしてしまって。
(なんて身勝手な)
胸中で、自嘲する。でも。きっと彼も同じ思いだった。
───殺してしまってよ。苦しませたことを後悔しているから───
カリムが手に力を込めるのを待つため、瞼を閉じようとした、瞬間に。
(え……?)
目の錯覚かと、思ったけれど、きっと。違う。今、見えたものは確かに。
ルックはそろそろと手を上へ伸べた。カリムが僅か、驚いていた。
(もしかして)
これは。
(触れてみたら、)
きっと。
「カリム…だ……」
指先に触れた頬は、温かかった。
「ルック?」
カリムは、不思議そうな顔で、それでも微笑んでいた。
どうして、最初からこうしなかったのだろう。どうして、この手で触れてみなかったのだろう。
きっと、彼は最初から、この温かさを持っていただろうに。
(偽物だとか、本物だとか、そんなこと)
こだわる必要など、なかったというのに。
「カリム、なのにね……」
目の前に存在していたのは何時だってカリム自身でしかありえなかったのに。
「カリム……」
名を、呼んだ。
「うん」
彼が応えてくれた。
それだけで、もう充分な証拠だったのに。
偽物だろうが、本物だろうが、
憎しみだろうが、愛情だろうが、そんなものは
「何だっていいんだ……」
呟いて、彼の首に、思い切り抱きついた。背を両腕に支えられ、全身で感じる彼の体温が、嬉しくて仕方なかった。


  





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